以下は『A Fistful of Murder』からの抜粋である。 ドン・ストラドリー著「カルロス・モンゾンの戦いと犯罪」。 Copyright © 2020 Don Stradley.
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CHAPTER 8
BULLETS
アルゼンチンからの報告:モンゾンは誤って自分を撃った
1973年2月28日、モンゾンは右前腕から弾を取り除く2時間の手術に耐えながら、その手術は終わった。 彼は報道陣に対し、狩りに行く準備をしていたところ、22口径のリボルバーが手から滑り落ち、「床に落ちた瞬間に発砲した」と語った。 ニューヨーク・デイリー・ニュース紙は「最近、誰もがミドル級チャンプのカルロス・モンゾンを狙っている」と冗談を言った。
すぐに、12年近く連れ添った妻メルセデスの好意で2発の弾丸がモンゾンに入ったことが報道された。 その頃、彼女はアルゼンチンでは「ペルサ」(スペイン語で「綿毛」の意味)というニックネームでよく知られていた。 メルセデスは、最初はこの作り話に付き合っていた。 モンソンがサン・ミゲル病院で手術を受けている間、メルセデスはカメラマンに向かってポーズをとり、優しく微笑んだ。 「カルロスには、いつも武器に気をつけるように言っているのよ」。 「でも……みんな悪く考えて、私の責任にしようとするんです。 僕じゃないんだ。 事故よ」
警察は「事故」の話に満足しているようだったが、モンゾンは実際に腕と肩に2発撃たれていたので、それは奇妙なことであった。 銃は落としてから発射することはあっても、2回も発射して標的に命中させるなんて、とんでもない。 しかし、アルゼンチンでのモンソンの地位は高く、銃声が聞こえる直前にモンソンとメルセデスが自宅の前庭で乱闘していたことを近所の人が警察に話したにもかかわらず、警察はこの話を認め、あるいは口止め料を受け取って捜査を打ち切ったのだ。
モンソンの女遊びは誰にも秘密ではなかった。彼とメルセデスはカルロス・ラウルという子供を養子に迎えたが、多くの人がモンソンの不倫の結果ではないかと疑っていた。 この頃、ブルサはモンゾンの邪魔をすることにかけては、経験豊富になっていた。 コミッショナーとの交渉、モンゾンとメルセデスの仲介、モンゾンの度重なるスキャンダルを無視するようジャーナリストを説得することにも慣れていた。 しかし、銃声は新鮮だった。 ブルサは驚くほど冷静に報道陣と向き合い、モンゾンが予定していたエミール・グリフィスとの再戦に支障はないだろう、と語った。 ブルサは、2発目の弾丸が手術不能で、小さな弾丸がモンソンの肩の中に残っていることは報告しなかった。
療養中、モンゾンはアメリカから、ボクシング・ライターズ・アソシエーションがエドワード・J・ニール・トロフィーのファイター・オブ・ザ・イヤーに彼を選んだとの知らせを受けた。 BWAの栄誉とともに、ボクシング・イラストレイテッド誌とリング誌は彼を1972年のトップボクサーとして表彰した(リング誌はモンゾンとモハメド・アリを一緒に表彰)。
第一に、試合のための体重を作ることが難しくなっていた。 モンゾンはミドル級でキャリアをスタートさせ、今は160ポンドのリミットを守るために飢餓状態にしなければならなかった。 1973年当時は168ポンドの階級はなく、スーパーミドルウェイトが確立されるのは1980年代に入ってからであった。 身長とリーチによる優位性を捨てたくなかったのだろう。
一方、ブリスコ戦の観客動員数は予想より少なく、わずか1万7000人だった。 ルナパークには4千人ほどの空席があり、レクトーレは困惑していた。 モンゾンがブリスコーを相手にルナパークを満員にできなかったら、レクトーレはどうすればいいのか?
予想通り、グリフィスとの再戦は延期され、モンゾンは銃創を癒すことができた。 体調が回復すると、5月5日にローマでノンタイトル戦が行われることになった。 この試合では、シンシナティ・ミドル級のロイ・デール選手を5ラウンド2分40秒に倒した。 AP通信は、モンソンがミドル級のリミットを3.5ポンド上回っていただけでなく、「彼のパンチの多くが的を外しており、気が散っているように見えた」と指摘した。
この気が散っているというのは、モンソンが試合の朝に受け取った知らせと関係があった。 彼の弟、ザカリアスがサンタフェから60マイル離れたパレダの町で同僚に殺害されたというのだ。 ブルサはそのことをモンソンに伝えようとしたが、モンソンは過去にも同じような知らせを受けて戦ったことがあった。 ベンベヌーティとの初戦の前夜には義兄が自然死し、モイヤーとの試合の前夜には義父が交通事故で死亡していた。
カルロス・モンソンにとって死は決して遠い存在ではなかった。