戦後の日本の産業の復興と成長を体現したのは、他の数人の企業家とともに盛田昭夫(1921年生まれ)であった。 盛田と、彼が井深大と共同で設立したソニー株式会社は、日本の「経済の奇跡」に対する既成概念を覆すものである。 盛田は、1921年1月26日、名古屋市近郊の小菅谷村の酒造家の15代目跡取り長男として生まれた。 クラシック音楽が好きだった母の影響で、少年時代から電子工学や音響再生に強い関心を持ち、RCAヴィクトローラを日本で最初に所有した。 電子工学の実験に没頭し、ハムラジオを自作するほどで、学校を落第しそうになったが、1年間勉強に専念した後、名門の第八高等学校に物理学専攻で入学した。 大阪帝国大学では、日本海軍の研究のために教授を手伝った。 徴兵されるよりはと、海軍に入隊して勉強を続けた。 1944年に卒業すると、森田は航空技術センターで熱線誘導兵器や暗視装置の特別研究班を指導した。 そこで、13歳年上の電子工学者、井深大(いぶか まさる)と出会った。 盛田は、そこで13歳年上の電子技術者、井深大と出会い、親交を深め、やがてソニー株式会社を設立した。 1946年3月、盛田と井深は、焼け残ったデパートの事務所を借りて、資本金500ドル、従業員20名で東京通信工業(以下、東通工)を設立した。 その中でも、高周波トランジスタラジオは、ソニーの名声を確立しただけでなく、コンシューマーエレクトロニクス業界にも革命をもたらした。 しかし、このプロジェクトは、通商産業省の認可を経てスタートした。 1953年、盛田がWE社とトランジスタ技術で合意した後、通産省は半年も待たされ、ようやくライセンス料の外国為替が振り込まれた。 盛田は、「政府と産業界は信頼関係があるが、過剰な介入や時代遅れの規制によって、革新的な変化や発展を阻害することがある」と指摘する。 ソニーは、年間売上高の6〜10パーセントを研究開発費として投入し、政府の援助や系列にとらわれない新しい消費財の開発を率先して行ってきた。 トランジスタラジオから固体テレビ、ウォークマン、ディスクマン、ビデオデッキまで、さまざまな製品のパイオニアとして、1990年には10万人以上の従業員を抱え、民生、非民生、産業、業務用エレクトロニクス、娯楽ソフトウェアの分野で世界一のメーカーとなった
盛田はマーケティングにおいてもパイオニアであった。 1950年に開発したテープレコーダーが売れなかったことから、製品開発とともに市場創造が必要であることを確信した。 1953年、初めてヨーロッパを訪れた彼は、オランダの田舎町にあった小さな電球メーカーが、世界一の電機メーカーに成長したフィリップスの成功に深い感銘と勇気をもらった。 そして、盛田は、貧しく混雑した日本国内市場ではなく、世界市場、特に豊かなアメリカ市場をターゲットにすることを決意した。 盛田は、世界市場でのアイデンティティーの確立を目指し、1955年、外国人にも覚えやすい「ソニー」を商標として採用した。 東通工は、1958年にソニー株式会社となった。
1950年代半ば、日本のメーカーの多くは、日本の巨大商社に頼って輸出をしていたが、盛田は、新しい技術やそのメリットを直接消費者に伝えることができる独自の流通ルートを構築することを決意していた。 1960年、盛田は販売部門として、ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカとソニー・オーバーシーズ(スイス)を設立した。 1961年、ソニーは日本企業として初めて、米国でADR(米国預託証券)の形で株式を公開した。 1960年2月には、ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立し、2年足らずで、日本企業として初めて米国で株式を公開した。 製造と販売の拠点をアメリカやヨーロッパに移せば、日本企業にはないビジネスチャンスが得られると考えたのだ。 その後、ソニーは営業部門と生産部門を拡大し、世界中に数百の子会社や関連会社を持つ国際的なネットワークに発展していった。 1988年にはCBSレコードを、1990年にはコロンビア映画とトライスター映画(現ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)を買収し、エンターテインメント分野でのビジネスを拡大した。 1986年からは、世界の市場環境の変化に対応し、放送機器、半導体、映像通信、コンピューターなどの非コンシューマー分野にも進出していった。 1987年、盛田は『メイド・イン・ジャパン』を著した。この本は、スタンフォード大学大学院のジム・コリンズ教授が、学生たちに「道を切り開いた人たちから学ぶのが一番だ」と勧める歴史的伝記である
盛田はしばしば日本の経営者の代弁者となった。 盛田は日本的経営の代弁者として、チームワークの重要性、家族的な環境の中でやりがいのある仕事をすることによるモチベーションの向上、特に工業会社の技術者には創造性の目標が必要であることを強調し、自らの考えを述べている。 そして、「道具としてではなく、同じ人間として扱わなければならない」ということだ。 盛田は、「ものづくりが経済の力を決める」とし、「ペーパープロフィールを作るための過度の金融取引は、この基盤を破壊する」と指摘した。 盛田は、家族主義や会社への忠誠心が、長期的な計画や投資を可能にすると賞賛した。 また、アメリカの経営者が四半期ごとの利益や配当にこだわり、設備投資を先送りする傾向があることをしばしば批判した
盛田は日米関係についても率直な意見を述べている。 例えば、安い労働力を求めて製造工場を海外に移転し、アメリカ経済を「空洞化」させることに警鐘を鳴らした。 1989年、盛田と自民党衆議院議員石原慎太郎の対談をまとめた『ノーと言える日本』が米国で無断翻訳され、波紋を広げた。 その内容は、石原氏の発言がほとんどであったが、盛田氏の傲慢さを非難する評論家もいた。 しかし、盛田はアメリカ市場の開放性を高く評価し、それに応えるべく、1972年に対日輸出促進を目的とするソニー貿易株式会社を設立した
1959年にソニー株式会社副社長、1971年に社長、1976年に会長兼最高経営責任者となった。 1972年、ソニーはトリニトロンの開発で、全米テレビ芸術科学アカデミーからエミー賞を授与された。 1976年には、盛田がCEOに就任し、ビデオテープ録画システム「U-マチック」で再びエミー賞を受賞した。 3度目のエミー賞は1インチヘリカルスキャンビデオテープ、4度目のエミー賞は1984年、コンピューターグラフィックスに適した大量画像保存機能を持つビデオレコーダーの開発で受賞している。 1985年には、小型コンパクトディスクプレーヤー「D-5」が、ビルボード社から「トレンドセッター賞」を受賞した。 盛田は、「技術・産業の革新と経営、工業デザイン、工業関係、ビデオシステム、貿易関係の発展への顕著な貢献」により、英国王立芸術協会よりアルバート・メダルを受賞している。 盛田は、1989年に会長に就任した。 経団連副会長、経団連「企業市民」協議会会長として、海外の日本企業が地域社会の良き一員となるための啓蒙活動を積極的に行った。 1993年11月30日、72歳の盛田は脳出血で倒れ、東京で開催されたG7(日米独仏英伊加)の首脳会議で、日米欧の経済格差を是正し、新しい世界経済秩序を構築するよう呼びかけた。 当時、収益が悪化していたソニーは、盛田が後継者として指名した社長兼最高経営責任者であり、ソニーソフトウェアとソニー・コーポレーション・オブ・アメリカの会長を務める大賀典也が、盛田の後を継げるかどうかで悩むようになった。 大賀は、ソニー・ピクチャーズエンタテインメントの業績が32億ドルの赤字になったことを非難されている。 ソニー株式会社の心配のほかに、日本の多くの人々が、盛田が舵を切ることが何を意味するのかを心配していた。 ジョリー・ソロモンとピーター・マキロップはニューズウィーク誌に、盛田は「トランスナショナル経営者の典型」、あるいはゼネラル・エレクトリックのジャック・ウェルチ会長が言うように、「精神的グローバル」であると見られている、と書いた。 国内よりも海外で愛される破天荒な人物だった盛田は、最近では日本でも「最もパワフルで説得力のある声」として認められている
IEEE(電気電子学会)は、「彼の優れた企業リーダーシップと、家電製品に先進技術をもたらした生涯の革新的貢献」を評価し、脳卒中から1年もたたないうちに盛田にFounders Medalを贈呈した。 盛田はまだ回復途上であったため、受賞は奥さんと息子の1人が受けた。 盛田は、IEEEから表彰された3ヵ月後の1994年11月25日、脳出血の後遺症が残るソニーの会長職を退くことを決意した。
盛田は、宇深の後を継いで名誉会長となり、また、正式にソニーの創業者として認められたとビルボードは報じている。 井深は1990年に創業者に就任しており、その役割を継続するとともに、最高顧問に就任しています。 ビルボードの記事でスティーブ・マクルーアは、日本では、このような肩書き(友人たちが共同でソニーを始めたことを示す)は、実質的に会社から引退した経営者に与えられることが多いと述べている。 1994年秋、療養のためハワイのコンドミニアムに向かった。 フォーチュン誌によると、元気で頭も冴えているが、話すことや動くことがしばしば困難であった。 そのため、日本語と英語を交互に話すという治療が行われた。 盛田は名誉会長の座を降りたが、今でも「ソニーの家長」と言われている、とブレント・シュレンダーとシンディ・カノはフォーチュン誌に書いている。 ソニーの幹部は、日米間を往復する際、盛田に会うためにハワイに立ち寄る。 盛田は、今もなお、ソニーの経営に大きな影響を与え続けている。 大賀は、以前から盛田と決めていた65歳の誕生日を迎えた時、盛田に会い、「次の社長は、ソニーでは珍しい技術畑出身の出井伸之(いでのぶゆき)でいい」と了解を得た。 1960年にソニーに入社した出井は、早くから盛田の目に留まりました。 1960年に入社した出井は、早くから盛田の目に留まり、10年以上ヨーロッパに滞在して、フランスに現地法人を設立した。 ウォークマンなどのマーケティングを担当し、大賀のオーディオCDの普及にも貢献した。 80年代には、ホームステレオコンポーネントグループ、8ミリビデオカメラの普及に貢献したビデオグループなどを率いた。 1990年になると、出井は大賀の後任としてデザインセンター長に就任し、マーチャンダイジングとプロダクトプロモーションの責任者となった。 1993年には、コーポレート・コミュニケーションの責任者に就任し、ソニーの経営陣の中で最も目立つ存在となった。 出井は、ソニーのビジネスに誰よりも直接的に関与していた。 1277>
盛田は、ペンシルバニア大学とウィリアムズ大学から名誉法学博士号を授与され、日本、イギリス、フランス、西ドイツ、オーストリア、ブラジルなどからさまざまな名誉勲章を授与された。 1995年には、日米理解の促進に顕著な貢献があったとして、ジャパン・ソサエティー賞を受賞した。 ゴルフは40年以上続けていた。 55歳でテニス、60歳でダウンヒルスキー、64歳で水上スキー、68歳でスキューバダイビングを再開した。 1277>
Further Reading
最も包括的な伝記は、盛田昭夫、エドウィン・M・ラインゴールド、荘村光子著『メイド・イン・ジャパン』(日本経済新聞出版社)である。 盛田昭夫とソニー」(1986年)がある。 盛田昭夫の生涯と思想については、盛田昭夫『学歴無用論』(1987年)、盛田昭夫・石原慎太郎『「ノー」と言える日本』(1989年)、盛田昭夫「ソニーがアップスタンド型だったころ」『Forbes』(10月6日)、「成功の鍵は技術経営」『研究経営』(3、4月号)などが参考になる。 ソニーの歴史については、「源流・ソニー40周年」(1986年)、その英訳「Genryu: Sony Challenges 1946-1986」を参照。 また、以下も参照。 ラリー・アームストロング「ソニーの挑戦」ビジネスウィーク(産業・技術編)(1987年6月1日)、小長谷洋子「ソニー株式会社。 小長谷洋子「新分野、新戦略」東京ビジネスTODAY(1989年6月号)。 “What am I in for?”(私は何に巻き込まれるのだろう? Inc. (1992年7月)、盛田昭仁「新しい世界経済秩序に向けて」アトランティック・マンスリー(1993年6月)、Jolie Solomon and Peter McKillop,” We Have Lost a Very Important Player,” Newsweek (December 13, 1993), William Livingstone and Bob Ankosko, “Awards and Prizes,” Stereo Review (August 1994), “Akio Morita,” US News and World Report (December 5, 1994), Steve McClure, “Ohga Now Stands Alone At Top Sony Corp,「ビルボード(1994年12月17日)、ブレント・シュレンダー、シンディ・カノ、「ソニー・オン・ザ・ブリンク」フォーチュン(1995年6月12日)、ボブ・アンコスコ、ウィリアム・リビングストン、「モリタ・オノレイド」ステレオレビュー(1996年1月)などがある。 オンライン情報はhttp://www.digitalcentury.com/encyclo/update/sonyから入手可能です。 □