伝説によると、当時久遠寺で法華経を読誦していた日蓮大聖人の前に七面天女が現れ、日蓮大聖人はこの七面天女を慕い、日蓮宗に入信したという。 日蓮大聖人が久遠寺で法華経を読誦していると、七面天女が現れ、自分は水神であり、過去の負のカルマを赦すことを求めているのだと名乗りました。 日蓮は花瓶を手に取り彼女の前に置くと、彼女は赤い水龍であることを明かし、湖に戻りそこに留まって久遠寺を守るようにと指示しました。 また、日豊上人が師匠の日蓮の像を彫ろうとしたとき、この神が大御本尊の原型を送ったとされる。
御書『浄行集伝抄』に基づく日蓮正宗の教義(他の日蓮宗では偽書とされている)によれば、この像は日蓮が自ら作った御本尊を弟子の日邦上人が木地に移したものである。 日邦は、山梨県の守護神である龍神七面(りゅうじんしちめん)に絶え間ない断食と祈祷を行った。 日邦は断食して山梨県の守護神である龍神に祈願したところ、龍神は祈願に応えて近くの川から丸太を流してくれた。 その後、山梨県の久遠寺に保管されていたが、日興上人が没収し、一番弟子の百閒坊に背負わせて森を抜け、大石寺に安置された。 また、日鵬が彫った日蓮像は、大石寺方丈の大御本尊の隣にある宝塔に安置されている
「日鵬(弟子)は日蓮像を彫りたいと思った。 そして、七面大明神に祈願した。 その祈りが通じたのか? 彼は、(川に)丸太が浮いているのを見つけた。
日蓮正宗の僧職は、大御本尊の祭壇が未完成であるため、日本のシキミ常緑樹や太鼓を祀っていないと主張する。 また、日蓮正宗が地球上の主要な宗教となる「広宣流布」が実現するまでは、大御本尊を人目にさらすべきでないと考えているのである。
第二十六世日寛上人は、『本尊釈義』において、本尊について次のように述べられています。
弘安二年(1279)銘の本山御本尊は、大聖人様の究極・絶対・終局の原因であり、本山御本尊は、大聖人様が御出家された時のものである。
日蓮宗では、日蓮が大御本尊を弘安二年(1279)十二月十二日に刻んだと主張しています。 日蓮正宗の信者は、日蓮の『聖人の迫害について』の一節を引用し、大御本尊の真偽を裏付けるものとしている。
釈迦は四十余年、大師遍照は三十余年、伝教大師は二十余年で来迎の目的を果したのである。 この間、彼らが受けた筆舌に尽くしがたい迫害については、何度もお話ししてきたとおりです。
富士講の立場から言えば、本山大御本尊は日蓮の生涯の教えの究極の目的であり、そのために、日蓮はこの大御本尊の上に立って、日蓮の生涯の教えを説いたのである。 この御本尊は、末法の世、全ジャンブドビッパのすべての人々が、今の姿で成仏できるようにと刻まれたものです(即身成仏)。
さらに、日興上人から日木上人への譲渡文書「日興往生之事」には、
第二条 日興が相続した弘安二年(1279)の大御本尊は日木に遺贈される、と書かれています。
日興上人直筆の譲与書2通が現存する。 一つは元徳2年(1330)に書かれた下書きである。 もう一つは、正慶元年(1332)に書かれた譲渡文書そのものである。 いずれも日興上人の署名がある。 5527>
また、第三世日穆上人は、
日興の身上に預けられた大御本尊は、板御本尊である。 5527>
日興上人、日目上人の文書から、大御本尊は日蓮正宗の歴代の高僧の間で受け継がれたことがわかります。 この大御本尊は、広宣流布の暁に、富士山麓に本山を建立し、初めて公に祀られることになったのである。
第十四世日秀上人は、「日興往生之事」において、
御本尊は、大石寺の譲受に関するもので、上人から下人への専横を意味するものである、と述べています。 正安の時代に日興上人が大聖人から受け継いで日木上人に譲られた本義的教化の大御本尊は、まさに末法における日蓮・日興・日木系を通じた譲受の全体像として不変のものです。
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